マスダさん

 
年が明けて、三ヶ月ほど経った。僕はまた灰色の工場へ軽自動車を走らせている。
時刻は五時四十分。辺りはまだ真っ暗だ。タバコを吸う為に開けた窓の隙間からは、明らかな敵意を持った冷気が刺してくる。
僕がこの仕事を好きになれない理由の一つがコレだ。「交代制」の仕事では、人がまだ起きていない時間から働かなくちゃいけないし、人がもう自宅で寛いでいる時間まで働かなくちゃいけない。もちろんそれは、「手当て」という形で担保されている。だけど僕にとってそれは、まだ起きていない街を走ることや、凍ったフロントガラスを袖でこすることと釣り合いが取れていなかった。
昨年引っ越した僕の城から仕事場までは約三十分かかる。ギリギリまで起きれない僕は、今日も遅刻していた。それでもコンビニに寄る。遅れている時ほど寄りたくなるのだ。おにぎりとサンドイッチを買い、食べながらまた車を走らせる。仕事がはじまってからはタバコは吸えない、だから車内では鎖つなぎのように延々とタバコを吸い続ける。
灰色の工場に着いた。法定速度を破ったおかげで、三分の遅刻で済んだ。よし、これならタイムカード忘れでごまかすことができる。相変わらず最低の社員っぷりだ。早歩きで職場へと向かう。
 
「おいっす」
片耳にリングピアスをつけた先輩社員が声をかけてくれた。マスダさんである。親指をクイッと立て、いつもの合図をする。工場の外にでて、タバコを吸うのだ。早番が出勤する時間は朝六時。日勤の偉いさんがくるのは八時。この二時間は、部下がくつろいで仕事ができる。というか、サボれる。
まず職場についたらタイムカードを切って、マシンを暖気。それから缶コーヒーとタバコをキめるのが僕らの日課だった。
最近のココでの僕はというと、以前よりも悪くはなかった。というのも全てはこのマスダさんのおかげだ。違う工程で働いていた僕。遅刻常習犯で先輩社員にもたてついて村八分にあった僕。そんな僕を上司に口聞いて、彼の持ち場に呼んでくれたのだ。それまでの彼との接点なんて、挨拶程度のものだったんだけど。
何を見出してくれたのかはわからないけど、とにかく僕に期待してくれた。作業内容には相変わらず興味はもてなかったけど、彼と働くのは楽しかった。
たまの週末には飲みに行ったり、車をいじったり。誕生日にタバコをカートンでもらった時は、なぜか泣きそうになった。
とまあ、そんな感じで、灰色に少し赤みがさした気がしていた。
 
「バンドはどうなんスかっ」
マスダさんはこんな感じで、後輩の僕に対してたまに敬語を使ってくる。
バンドのことも、彼には話していた。要するに心を開いていたのだ。
「メンバーまだきまらんのよ〜」
なぜか僕は彼に対してタメ口だった。だが、僕は、彼をとびきり尊敬していた。早くに家族をもって、まだ若干三十代前半。中途社員という肩身が狭い立場ながら上司にもしっかりと意見を伝え、先輩社員をさしおいて持ち場のリーダー的立場だった。工具の扱いに長け、頼れるお兄さん、といった所だった。
「ライブ決まったらみんな連れてみにいきますから」
 
そう、これは僕のバンドの話だった。
 
そして今日は、カツキと新メンバー候補のミズキと会う約束をしていた。
それもあって機嫌がいいのかも知れない。
ミズキの存在を、僕は知っていた。
カツキの前のバンドのベーシスト。技術は誰しもが認めていた。僕は、どちらかというと彼がメンバーになってくれるかどうかが不安だった。少し活動したとはいえ、まだ素人に毛が生えた程度。彼の目に僕の音楽はどう映るのだろうか。
 
残業はもちろん断って、即帰宅した。
シャワーをあび、簡単に部屋を片付けていると、カツキから連絡があった。
話は僕の家でする運びになっていた。
 
チャイムがなる。ドアを開けると、カツキの陰に隠れてミズキの姿があった。僕を見るなりペコっと大袈裟にお辞儀をして少々違和感のある笑みを作ってみせた。
カツキもそうだが、かなり奥手っぽい感じだ。でもなんだろう。カツキとは違いどことなく漂う変人オーラ。
とにかく僕は二人を自室へと案内した。